心音
心音が嫌いだ。
自分の心音も嫌いであるし、他人の心音も嫌いである。
恋人の心音を聞くことで安心するという小説などの描写があるが、全く共感できない。
こう思うのはどうやら私だけではないようで、心音を嫌いだという人は他にもいるようである。
『母親の胎内にいたときに母親の心音を聞き続けていたので、心音を聞くとその記憶から安心する』というロジックらしいが、実際に眠れないときなどに心音や時計の秒針そして波の音などの一定のリズムを刻むものは無意識のうちに次の音を予期して緊張してしまうためホワイトノイズのようなリズムを刻まないもののが向いているらしい。
映画などの映像作品でも心音などはどちらかというと緊迫感のあるシーンで使われることが多いのではないか?
昔、夜眠れない私を当時の恋人は抱きしめ耳に鼓動を聞かせてくれた。それは相手の優しさであるが、わたしはその優しさを上手く受け取ることは出来なかった。不快であるのだ。
鼓動も人の体温も。
眠るときには身体を寄せ合いたくない。
可愛くない女であると思う。
脈拍を計るのにもなにか緊張してしまう。
生きている限り逃れられない音だ。
我慢するしかないのだ。
生きている限り。
嫌いだからといってこの音から逃げようとは思わない。
生きている限り我慢することはいくらでもあるし、これもそのうちのひとつだ。
心臓の規則的な収縮、生きている音、緊張すれば早くなり、平常時には静かに、たしかにそれは心の音であり、命あるものの音である。
命というものへの恐れ。
いまは他人の心音を聞くことも他人の体温を感じることもなく、快適だ。