yuranokaの日記

なんか書きます

フレーバー

最近フレーバーウォーターがやたらめったら増えましたね。

 

いままでジュースみたいな顔してた無果汁の清涼飲料水が着色料と香料をぶちこんだだけの砂糖水でしかなかったことが分かりやすくなったなーと思います。

 

でもなんとなく透明なだけでヘルシーにみえるのが不思議です。

 

着色料がなくなっただけで香料入りの砂糖水なのは変わりないのに…。

 

最近、自分が味のない飲みものが好きなことに気づきました。

クラフトビールが苦手でライトエールが好きなのも、レモンやグレープフルーツ風味の炭酸水よりなにも入ってないのが好きなのも。

 

ただ、最近ただの水が妙に甘く感じるようになりました。亜鉛不足(あるいはストレス)からくる味覚異常か考えたくないけど糖尿病か?という嫌な二択…。

 

とりあえず亜鉛のサプリを毎日飲んでみてるんですが、やっぱり水が甘いんですよね。

 

やだなぁ。

心音

心音が嫌いだ。

 

自分の心音も嫌いであるし、他人の心音も嫌いである。

恋人の心音を聞くことで安心するという小説などの描写があるが、全く共感できない。

こう思うのはどうやら私だけではないようで、心音を嫌いだという人は他にもいるようである。

『母親の胎内にいたときに母親の心音を聞き続けていたので、心音を聞くとその記憶から安心する』というロジックらしいが、実際に眠れないときなどに心音や時計の秒針そして波の音などの一定のリズムを刻むものは無意識のうちに次の音を予期して緊張してしまうためホワイトノイズのようなリズムを刻まないもののが向いているらしい。

映画などの映像作品でも心音などはどちらかというと緊迫感のあるシーンで使われることが多いのではないか?

 

昔、夜眠れない私を当時の恋人は抱きしめ耳に鼓動を聞かせてくれた。それは相手の優しさであるが、わたしはその優しさを上手く受け取ることは出来なかった。不快であるのだ。

鼓動も人の体温も。

眠るときには身体を寄せ合いたくない。

 

可愛くない女であると思う。

 

脈拍を計るのにもなにか緊張してしまう。

生きている限り逃れられない音だ。

我慢するしかないのだ。

生きている限り。

 

嫌いだからといってこの音から逃げようとは思わない。

生きている限り我慢することはいくらでもあるし、これもそのうちのひとつだ。

 

心臓の規則的な収縮、生きている音、緊張すれば早くなり、平常時には静かに、たしかにそれは心の音であり、命あるものの音である。

 

命というものへの恐れ。


いまは他人の心音を聞くことも他人の体温を感じることもなく、快適だ。

女のからだについて

女の白い肌。細い首。高い声。黒い髪。

 

女というのはこわい。

女のからだのひとつひとつのおそろしいこと。

「幼い頃、女の静脈浮いた肌がこわく思えた。母の太ももは白く丸かったが幾筋にも分かれる血管の浮いたさまが恐ろしかった。この白く薄い肌の下には青い血管から赤い血液が通っていると思うとぞっとした。この白く薄い肌を破けば下の青い血管から赤い血がどくどくと溢れるのだと思うと肌がぞわりとした。今、自分の足をみると、あの太ももがある。白く青い筋が幾筋も通っている。私もあの足に似通ってきた。この足の肌の下に流れる静脈をみるとやはりどきりとし、恐ろしくなるのだ。それと同様に私は女の細い首がこわい。あいにく、母の首も私の首もすらりと長くも細くもないが、テレビにでてくる女優などにその首は多い。あんなに細くてちゃんと人間の頭を支えられるのかしらと思う。顔や脳などより首に目がいき、あの首をごきりと折れるだろうかとつい考えてしまう。ついつい折りたくなってしまうあの首のどれだけ恐ろしいことか。そんな想像をかきたて自分を恐ろしい人間ではないかと思わすあの首の罪は重いはずだ」

女のからだのひとつひとつは恐ろしい力をもっている恐るべきものだが全体としてみてしまえば、なんのことはないただの女だ。

世界はクリーンになっている

世界はクリーンになっている。

(日本だけの話かもしれない)

20年ほど前と比べて驚くほど変わっていると感じることがある。少し昔の日本は喫煙者の存在はマジョリティだったが、今では非喫煙者の方がマジョリティのようだ。タバコの値段は上がり、副流煙の危険性が周知され、公共の場は禁煙や分煙化がされた。

ここまで世界が変わるとは思わなかった。

将来的に飲食店での喫煙すら禁止にすることが要望されていることなど信じられないぐらいだ。

同じく、飲酒に対する法令遵守も極めて進んだ。飲酒運転への取り締まりや罰則も厳しくなり、未成年の飲酒に対する目も変わった。

コンプライアンスという言葉が一般的になり、セクシャルハラスメントやアルコールハラスメントが問題視されるようになった。

男女平等が進み、女性であること弱者ではなく単なる個人の属性になりつつあるように思う。

街は綺麗になり、ホームレスは排斥され、暴力団は祭から排除される。

 

世界はクリーンになっている。

あらゆるマナーアップが啓蒙されている。

 

教育機関から体罰はなくなり、家庭での虐待が疑われる場合には通報が推奨されている。

暴言も暴力の一種であり犯罪行為であるとポスターは語る。

国民には番号が振られ、街中にある防犯カメラは犯罪の検挙に役立っている。

時には陰惨な事件も起こる。

でも、それは現代だけの問題ではなくいつの時代にも人間はそのような問題を起こす。

ある意味で人間活動の一種であり、普遍的なものである。

世界は清浄になっていっている。

少しずつ、気付いた時には驚くべきスピードで。

表現にも正しさが求められている。

間違いはリアルタイムで正されていく。

 

いつか、この未来はもっとクリーンになっていくのだろうか。(禁酒法のように揺り戻しがあるのだろうか?)

澄み切った泉に魚が住めないように、ナウシカ旧人類と改造人間たちのように、あまりに正しい世界に人間は住むことができるのだろうか。

世界はクリーンになっていく。

世界はまだまだ曖昧だけれど、どんどんと区画整理されていく。

いつか、暴力はフィクションだけの存在になるのだろうか。まだ、今はその過渡期でよかったと思う。

 

信じられるものとは何か?

信じられるものとは何か?

‪『唯一の可能性』‬


‪信じるということは難しいことだ。‬
‪あなたは恋人を信じることができるか?‬
‪家族を信じることができるか?‬
‪自分を信じることができるか?‬
‪特定の宗教をもたない私にとっては神を信じることも難しい。‬
‪(そもそも、宗教を基盤とする社会に帰属している人たちは本当に神の存在を信じているのだろうか?神を信じるのではなく神を信じていることを相互に承認することで神の不在を知りつつ神の存在を担保しているのではないだろうか?)‬

人間というのは間違いを起こす生き物だ。信じていた友人に裏切られることも、大事にしていた恋人が浮気することも大いにありうる。‬
‪私は人に「私を信じて」と言えるだろうか?‬
‪それを口に出して音にすることは容易い。‬
‪しかし、いつかは確実に嘘になりえるそのことをいうのは心苦しい。‬

なにより、私が人を信じられないのは自分自身が嘘をつく人間であるからだ。‬
‪他人を信じる以前に自分自身への信用がない。他人を測る尺度となる自分自身がこれであるから、私には信じられるものがなにもないのだ。‬

それでも私は信じるものがほしかった。‬
‪たとえばそれは神でもいい。‬
‪私を裏切らないであろう絶対のもの。‬
‪私は神に期待しない、故に裏切られることもない。‬

どちらかというと私は神が存在しないことを信じているかもしれない。‬
‪この世の信じられるものなど何もないということを信じているのかもしれない。‬
‪信じられるものなどなにもないと信じていたのかもしれない。‬

たとえば幽霊を信じない人がいる。‬
‪自分の目で見たもの以外信じられないという人がいるかもしれない。‬
‪しかし、目で見えないものはたくさんある。‬
‪水は目に見えるが、水の分子を肉眼で見ることはできない。‬
‪自分が知覚できることには限界があり、その限界の先にも確かに存在しているものがある。この世には私が一度も関わることができない人が存在するだろうし、私の存在そのものが何世代にも遡り今はもうこの世には存在しない先祖たちがいたことの確かな証だろう。‬
‪映画『マトリックス』のように私は本当は存在せず、夢を見ているだけだとしてもそれでも構わない。大事なのは存在そのものではなく、存在があることを信じているかどうかだ。‬

 

‪私が信じたいのは結局なんなのだろうか?‬
‪私自身への不信から、友人、知人、親、兄弟、恋人を信じられなくなってしまった。‬
‪しかし、物の存在自体は信じている。‬
‪私が信じたいのは、人間なのだろうか。‬

恋人を、家族を、友人を信じてみたい。‬
‪自分を信じることができないとしても、他者は違うと信じてみたい。‬

この世に信じられるものなど何もないと一度は思ったが、私は世界の存在そのものは信じている。私が信じたいのに信じられないのは他者の、そして恋人の好意だ。‬
‪言葉はいくらでも嘘をつける。‬
‪たとえその時には事実であってもいつかは変わる可能性がある。‬
‪それが怖かった。‬

私の見つけた解決策は可能性を信じることだ。‬
‪恋人の好意を信じることはできない。‬
‪しかし、その好意が事実であるという可能性を信じることはできる。‬
‪もしかすると、嘘かもしれない、いつか変わってしまうかもしれないけれど、でも本当かもしれないという可能性。‬
‪言葉そのものを信じることはできない、けれどもそれが本当であるという可能性ならば信じられると思えた。‬

本当は世界も物も存在していないかもしれない。恋人の言葉は嘘かもしれないし、いつか嘘に変わるかもしれない。神は存在しないし、幽霊もいないかもしれない。‬

でも、もしかしたら、そうかもしれない、そんな『可能性』があるかもしれない。


‪信じて裏切られるかもしれない、でも裏切られないかもしれない。ほんのわずかな可能性でもゼロではないかもしれない。‬
‪私が信じられるのはその可能性だ。‬

神はいるかもしれないし、幽霊もいるかもしれない、恐竜を現代に蘇らせることがいつか可能になるかもしれない。もしかしたらという可能性、あるいは想像、妄想はいくらでもできる。もしかしたら現実にはならないかもしれない。でも、その想像で幸せになれるならそれでもいいのかもしれない。‬


‪荒唐無稽な物語を信じるよりかは、恋人の言葉の方が現実味があるだろうか?‬