信じられるものとは何か?
『唯一の可能性』
信じるということは難しいことだ。
あなたは恋人を信じることができるか?
家族を信じることができるか?
自分を信じることができるか?
特定の宗教をもたない私にとっては神を信じることも難しい。
(そもそも、宗教を基盤とする社会に帰属している人たちは本当に神の存在を信じているのだろうか?神を信じるのではなく神を信じていることを相互に承認することで神の不在を知りつつ神の存在を担保しているのではないだろうか?)
人間というのは間違いを起こす生き物だ。信じていた友人に裏切られることも、大事にしていた恋人が浮気することも大いにありうる。
私は人に「私を信じて」と言えるだろうか?
それを口に出して音にすることは容易い。
しかし、いつかは確実に嘘になりえるそのことをいうのは心苦しい。
なにより、私が人を信じられないのは自分自身が嘘をつく人間であるからだ。
他人を信じる以前に自分自身への信用がない。他人を測る尺度となる自分自身がこれであるから、私には信じられるものがなにもないのだ。
それでも私は信じるものがほしかった。
たとえばそれは神でもいい。
私を裏切らないであろう絶対のもの。
私は神に期待しない、故に裏切られることもない。
どちらかというと私は神が存在しないことを信じているかもしれない。
この世の信じられるものなど何もないということを信じているのかもしれない。
信じられるものなどなにもないと信じていたのかもしれない。
たとえば幽霊を信じない人がいる。
自分の目で見たもの以外信じられないという人がいるかもしれない。
しかし、目で見えないものはたくさんある。
水は目に見えるが、水の分子を肉眼で見ることはできない。
自分が知覚できることには限界があり、その限界の先にも確かに存在しているものがある。この世には私が一度も関わることができない人が存在するだろうし、私の存在そのものが何世代にも遡り今はもうこの世には存在しない先祖たちがいたことの確かな証だろう。
映画『マトリックス』のように私は本当は存在せず、夢を見ているだけだとしてもそれでも構わない。大事なのは存在そのものではなく、存在があることを信じているかどうかだ。
私が信じたいのは結局なんなのだろうか?
私自身への不信から、友人、知人、親、兄弟、恋人を信じられなくなってしまった。
しかし、物の存在自体は信じている。
私が信じたいのは、人間なのだろうか。
恋人を、家族を、友人を信じてみたい。
自分を信じることができないとしても、他者は違うと信じてみたい。
この世に信じられるものなど何もないと一度は思ったが、私は世界の存在そのものは信じている。私が信じたいのに信じられないのは他者の、そして恋人の好意だ。
言葉はいくらでも嘘をつける。
たとえその時には事実であってもいつかは変わる可能性がある。
それが怖かった。
私の見つけた解決策は可能性を信じることだ。
恋人の好意を信じることはできない。
しかし、その好意が事実であるという可能性を信じることはできる。
もしかすると、嘘かもしれない、いつか変わってしまうかもしれないけれど、でも本当かもしれないという可能性。
言葉そのものを信じることはできない、けれどもそれが本当であるという可能性ならば信じられると思えた。
本当は世界も物も存在していないかもしれない。恋人の言葉は嘘かもしれないし、いつか嘘に変わるかもしれない。神は存在しないし、幽霊もいないかもしれない。
でも、もしかしたら、そうかもしれない、そんな『可能性』があるかもしれない。
信じて裏切られるかもしれない、でも裏切られないかもしれない。ほんのわずかな可能性でもゼロではないかもしれない。
私が信じられるのはその可能性だ。
神はいるかもしれないし、幽霊もいるかもしれない、恐竜を現代に蘇らせることがいつか可能になるかもしれない。もしかしたらという可能性、あるいは想像、妄想はいくらでもできる。もしかしたら現実にはならないかもしれない。でも、その想像で幸せになれるならそれでもいいのかもしれない。
荒唐無稽な物語を信じるよりかは、恋人の言葉の方が現実味があるだろうか?