先日、またひとつ歳を重ねた。
一般的にまだ人生の終わりが見える歳ではないが、数年前、10年には届かないものの近いだけを振り返るとなかなか落ち着かない数年感だったなと思う。
正常と異常なんて書いても、結局自分がどちらの側にたっているのかの自覚はある。
しかし、それなりに常識だって兼ね備えているつもりではあるから異常であっても非常識な人間ではないと思いたい。(常識を知っているだけで守っている様子はあまりないのでやはり非常識な人間かもしれない)
しかし、確固として自分がおかしいと自認しているわけでもなく、たまに調子が悪いかもしれないなという程度の認識だ。
100人にひとりが侵されるという病の診断は受けたが、本当はいい加減な診断だと思いたい気持ちもあるのだ。
ひとがおかしくなるという時
『真理を見つけた』という場合が多いのだそうだ。(ツイッターで流れてきたつぶやきなのでどこまで本当かは分からない)
例に漏れず、私も学生時代に『真理を発見』したのだ。
それがこのブログの1番最初の記事の「信じられるものとは何か?」のもとになった思想で、あれこれ本を読んだり自分なりに考えた結果みつけた真理である。
まあでも、いきなり友人から真理を発見したと聞かされた相手は困惑しただろうし、『頭のおかしくなった、あるいは元からおかしかったのかもしれない友人』としての評価を受けている。(それでもいまだに親交があることには感謝だ)
真理の発見、まさに哲学が目指し且つ到達できないとするもの。
いかがわしさ満点の言葉。
結局、この真理によって生きやすくなったのかは分からない。
信じるものなんかあってもなくても生活は続くし、人生はいろいろある。
いろいろあったなあ。