yuranokaの日記

なんか書きます

マドレーヌとフィナンシェ

ぼくの人生は大体マドレーヌとフィナンシェで彩られている。

 

すなわち、信仰と金だ。

 

マドレーヌはフランスの焼き菓子で丸くてひまわりのような形をしている。その名前はあのマグダラのマリアのフランス名から来ている。

マドレーヌ寺院がなんの教会かというと、当然罪を犯した女たちのための教会だろう。

マグダラのマリア自身が罪を犯した女として描かれ、改悛したストーリーが語られる。

娼婦の守護聖人でもある彼女は、ぼくの生まれた日の守護聖人でもある。

 

ぼくもなんども人生を転落するたびに、心を入れ替えようと決意するのは彼女のようになりたいからである。

 

苦痛に喘ぎながらも、更生し、信仰に生きる。共に苦しむ女たちを救う守護聖人となる。

ぼくはそんな愛の人生を生きたいと願うのだ。

 

 

そして、そんなぼくを苦しめるのがフィナンシェだ。

フィナンシェはファイナンシャルから来てる通り、金の延棒をかたどったお菓子だ。

バターたっぷりでアーモンドパウダーが効いていて、黄金色に輝くお菓子は、ぼくにとってはひまわりのようなマドレーヌよりも魅力的だ。

 

いつだって僕を堕落させるのは金への執着である。どんなことをしてでも、例え泥水をすすってでもそれを手に入れてやる。

金さえあれば、なんでもできるんだ。

これがぼくのもう一つの信念である。

 

そして、愛に生きるか金への欲望にいきるかがいつも僕に問いかけられ、それぞれへと傾いていく。

 

ぼくがいつか、死ぬ日がくれば。

みんなにはマドレーヌとフィナンシェの詰め合わせを返すように手配しようと思っている。

 

(結婚式の引き出物に加えるという案はそういえば浮かんだことがなかった)

 

 

それぞれ、好きな方を食べてくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ神が必要とされるのか

一言でいえば心の拠り所だ。

 

神が有能で信じることで現世利益的なものが手に入るからではない。

 

人がなにかを愛したいという欲求から要求されるのが神の存在なのだと思う。

 

人間を信じ愛すれば大抵は裏切られたり、失望したり、別れがあったり、悲しい思いをする。

 

人間は限りある存在であるのでいつかはいなくなる。例え生涯を共にしようとも死別は免れない。

 

動物の存在も慰みになるし、言葉を喋らない分、裏切られたり、嘘をつくこともない。

だけど、やはり有限の存在だ。

一緒にいられるのは限られた時間であり、別離は悲しみである。

 

神は全知全能で、無限で、不干渉だ。

いくら呼びかけても応えが返ってくることはない。

裏切りも嘘もない。

責めてくることもない。

いくら悪態をついても喧嘩にはならない。

 

だからこそ、一心に愛することができる。

人は愛されるよりも愛することで幸せを感じることができる。

なんでも受け入れてくれるブラックホールのような存在が神である。

 

自分の存在を許すことができないとしても、寄り添い無口でいてくれるのが神の存在だろう。

 

満たされない愛の捌け口として、神の存在は要求されるし、正しくありたいと人が願うからこそ戒律もうまれるのだ。

 

サンキュー、GOD。愛してるよ。

 

🤗🤗🤗

 

 

 

 

 

アナ雪2めちゃ良かった(ダイマ)

アナ雪、1より2が断然好き。人それぞれ感じ方は違うとは思うけど。‬前作のもう誰とも関わりたくない、1人で氷の城に閉じこもりたいという気持ちは確かに分かる。肉親すらとも関わりたくないときがある。


今作の自分が何者か分からず、旅に出ようとするエルサを運命に負けたとは思いたくない。
彼女は自分の意志で進んでいったのだと思っている。

運命を押し付けられたのではない、彼女自身が見出したのだ。と、私は言いたい。


例えは違うかもしれないが、謎の病気に苦しんでいる人がやっと病名を与えられ診断をくだされる時。それは安堵をもたらすことがある。
自分が求めていた答えがある意味そこにあるからだ。
病識を得ることでやっと自分の苦しみの原因や、得体のしれないことへの恐怖、そしてこれからの身の振り方を考えていくことができる。

自分が何者かを知らずに彷徨うよりも、例え残酷な答えであっても知りたくなるのが人間だと思う。
そして、自分の正体を知り、自分に課せられた役割を知っても、それに自分の存在意義を見出して安心することもあるだろう。

私はだから、彼女が人と違う理由が明かされて良かったと思ってるし、普通の人間でないことを悲劇と捉えたくはない。

彼女は強くて、自分の大切なものを守ることのできる力を授けられた。
それはとても素晴らしい贈り物だと思う。


正直、ただの根明キャラだと思っていたアナが今作で大きく印象がかわった。何の力も持っていなくても、たった1人でも何が正しいかを考え信じ歩んでいく。

正しいことを一歩ずつやるしかないと進んでいくアナにとても励まされた。私も一歩ずつ進んでいくしかない。

ディズニーがポリコレを掲げるとき、なんだか抹香臭くて反発してしまいたくなる。
でも、過去を反省し、新しく正しい物語を語ろうとするところはアメリカという国のとてもいいところだと思う。
理想が理想に過ぎなくても、美しい理想を語ることには大きな意味があると私は思う。(いわゆる押し付け××というものに対して)
だからこそ、ディズニージャパンのステマ騒動にはがっかりした。


ダムが壊されてアレンデールの街が破壊されなかったことに対する批判をみた。
過去を清算するために彼らの街は破壊されるべきだったと。それでこそカタルシスだと。

しかし、アレンデールは前作から時が経ち移民を受け入れて人種が増えたと描写されている。移民の彼らが、自分たちとは関係のない過去のことで被害を受けるべきだろうか?
そもそも、友好の証と信じられていたダムを贈り、それが侵略だと知らなかったアレンデールの民たちに責任はあるだろうか?
どんな大義名分であっても報復は報復であって、復讐の連鎖が生まれないために、彼らの街が守られて良かったと思う。

ダムを壊すという判断と街を守ること。
アナが何が正しいことかを考え、
エルサにその力があったからこそ迎えたハッピーエンドだ。

ずっと家族と一緒にいると例え好きな相手であっても息がつまることもある。
だから、1人暮らしをしたり別々に住むことでより関係が良好になることだってある。
何よりいつでも気兼ねなく迎えてくれて、いつでも駆けつけることのできる仲の良い姉妹なのだから。
 

 

祈り

 

祈ることが美しいと思うようになった。

 

祈ることになんの意味があるのだろう?

 

しかし、私は祈られたい。

 

 

 

 

 

 カラマーゾフの兄弟という小説のなかでアレクセイという青年は教会に住んでいる。

彼はとても心の美しい青年だ。

純粋な存在。

彼の家族は自分たちの代わりに教会で祈りを捧げるこの青年を殊の外愛している。

これを読んだ当時はあまりピンとこなかったのだが、誰かが自分たちのことを祈ってくれるというのは確かに救いだと思うようになった。

生きていることは大抵、日常生活の連続だ。

例え日曜日に教会にいこうが(ロシア正教は日曜日に礼拝をするのだろうか)、日々は生活に忙殺される。神への信仰だって格別厚いわけではない。

けれども、あそこに見える教会には、自分たち家族のことまで熱心に祈ってくれる存在がいるのだ。

純粋なものが、真剣に。

自分たちのことを祈ってくれている。

 

それは本当に心が慰められるだろうと、今の私は思うようになった。

 

 

 

メイクする

化粧。

こんな、しちめんどくさいことがある意味ルールとなっているのがダルい。

なぜ訳もわからん液体やら粉やらクリームやら紅やらを顔に塗りつけなければいけないのか。

そんなにも私の素の顔というのは醜いのだろうか。

化粧を意味する言葉コスメはギリシャ語のコスメティックからきているが、これはカオスな状態から秩序(コスモス)をもたらすことが由来だ。

誰の顔がカオスだって?!

男性なら顔を洗ってヒゲをそれば済むのに、訳も分からん絵の具で顔にお絵かきしなきゃいけないんだ。

そもそも化粧してなにか良くなってるのか、不自然に唇が赤くなることに意味があるのか。

化粧してもブスはブスだ。

美人に化けることもできないなら、顔に絵の具を塗りたくることで余計に惨めになるのは私だけなのか。

 

 

まあ、好きではないから当然上手くもならないし、上手くないからやる気にもならないし、練習しても鏡にうつる自分の顔みて泣きたくなってくるので必要最小限しか、そういうことはやりたくない。

 

学生のころは別に勉強しにいくんだから化粧なんか必要ないだろと割り切ってほとんどすっぴんだったし、周りにも華美な化粧をする子は少なかったので化粧をしないことは当たり前の環境だった。

 

唯一、化粧をするのは舞台の本番だった。

舞台のうえではあれこれ墨やら紅やらで塗装しないと顔が映えないのだ。

 

アイラインや、つけまつげ、口紅、チーク。

なんならウィッグだって。

 

それはあくまで非日常だったし、

先輩にはいつもの普段とのギャップを笑われた。

 

だから、そういう出で立ちでいることは、ほんとうにごく稀で、なにもしないことが自然だと思っていた。

 

化粧をすると、周りの対応が変わる。

普段仲のいいひとたちからの扱いは変わらないが、他人の、そして特に男性からの扱いは変わるようだった。

 

私はその時、柄にもなく居酒屋でバイトしていて(要領がわるかった)自分に向いてないことに悩んでいた。

だが、まるで舞台の上にたつように化粧をした時だけ、男性客は優しかった。

 

就職してからは最低限の化粧をしようと頑張った。たまに朝起きられなくてノーメイクの日もあった。化粧をきちんとした日よりも、女性社員がみんな優しかった。きちんと化粧をするよりもウケがよかった。たまにきちんとメイクをすると今日はどうしたの??と揶揄われた。

 

付き合いのあったひとは私の化粧を好まなかった。ダサいといわれた。時間のむだだからスッピンでいいと。可愛いワンピースにスッピンは不釣り合いだった。

 

恋人には化粧についてなにも言われたことはないように思う。

仕事帰りに居酒屋にいったりしたが、私の顔はろくに化粧直しもせず、朝書いたアイライナーは消えかけていた気がする。

 

年を重ねた。

 

 

化粧をしないことが怖くなってきた。

 

なにも施さない顔が自然だったはずが、なんだかとても恥ずかしいことに気がついた。

化粧をしても恥ずかしい。

相変わらず顔に塗りたくると出来上がるのはピエロだ。

ピエロは笑われるものかもしれないけれど、その顔を見ていると悲しくなる。

それでも、顔になにも塗らないよりはましだ。

マスクをする、仮面をつける、

化粧は素顔を隠してくれる。

メイクのしたは素顔のわたしだけど

顔に塗りたくった絵の具の分だけ、

私は素顔を隠せるのだ。

 

自分を晒すことがどんどん怖くなる。

素顔を隠して作り上げる。

それがメイクだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正常と異常

先日、またひとつ歳を重ねた。

 

一般的にまだ人生の終わりが見える歳ではないが、数年前、10年には届かないものの近いだけを振り返るとなかなか落ち着かない数年感だったなと思う。

 

正常と異常なんて書いても、結局自分がどちらの側にたっているのかの自覚はある。

しかし、それなりに常識だって兼ね備えているつもりではあるから異常であっても非常識な人間ではないと思いたい。(常識を知っているだけで守っている様子はあまりないのでやはり非常識な人間かもしれない)

 

しかし、確固として自分がおかしいと自認しているわけでもなく、たまに調子が悪いかもしれないなという程度の認識だ。

 

100人にひとりが侵されるという病の診断は受けたが、本当はいい加減な診断だと思いたい気持ちもあるのだ。

 

ひとがおかしくなるという時

『真理を見つけた』という場合が多いのだそうだ。(ツイッターで流れてきたつぶやきなのでどこまで本当かは分からない)

例に漏れず、私も学生時代に『真理を発見』したのだ。

 

それがこのブログの1番最初の記事の「信じられるものとは何か?」のもとになった思想で、あれこれ本を読んだり自分なりに考えた結果みつけた真理である。

 

まあでも、いきなり友人から真理を発見したと聞かされた相手は困惑しただろうし、『頭のおかしくなった、あるいは元からおかしかったのかもしれない友人』としての評価を受けている。(それでもいまだに親交があることには感謝だ)

 

真理の発見、まさに哲学が目指し且つ到達できないとするもの。

いかがわしさ満点の言葉。

 

結局、この真理によって生きやすくなったのかは分からない。

信じるものなんかあってもなくても生活は続くし、人生はいろいろある。

 

いろいろあったなあ。